日本での移籍トレードの可能性が無くなった元中日福留孝介選手が
正式に米大リーグのカブスと契約を交わしたそうです
続々と日本人メジャーリーガーが誕生してますが、
日本の野球界も盛り上げるために頑張ってほしいものです
外人助っ人を買い漁るばかりが補強では無いと。。。。思うこの頃
スポーツニッポンより
米大リーグ、カブスは12日、大リーグ挑戦を表明していた前中日の福留孝介外野手と
4年契約で基本合意に達したと発表した。
金額などは明らかにされなかった。AP通信によると、
4年総額4800万ドル(約53億7600万円)。
週明けに予定される身体検査の結果を待って正式契約する。
ジム・ヘンドリー・ゼネラルマネジャー(GM)は、
同日の電話記者会見で「福留選手がカブスを選んでくれたことを光栄に思う」とコメント。
今季はひじの故障で出場が81試合にとどまったが「ひじの状態は把握している。
春季キャンプは初日から参加できるだろう。
大リーグへの適応も問題ないと考えている」と話した。
米大リーグ球団と契約するため渡米した前広島の黒田博樹投手は12日、
ロサンゼルスに到着した。空港では報道陣の前に姿を見せなかった。
福留孝介


福留 孝介(ふくどめ こうすけ、1977年4月26日 - )
鹿児島県曽於郡大崎町出身の元中日ドラゴンズに所属(現在FA宣言中)するプロ野球選手。
ポジションは外野手で背番号は1。右投左打。愛称は「ドメさん」・「ドメ」。
1998年ドラフトにて中日ドラゴンズを逆指名。ドラフト1位で入団。
入団当初は遊撃手だった。
入団1年目の1999年は、当時の星野仙一監督が積極的にスタメンに起用し、
また福留も2割8分4厘、16本塁打とこれによく応え、新人としては上々の成績を収めリーグ優勝に貢献した。
しかし三振数リーグ1位を記録するなど粗さも目立ち、加えて守備には難があった。
肩も足もいいのだが打球勘が悪く、ペナントレースや日本シリーズでも敗因につながるミスが続出。
試合終盤は交代させられた。
この年のプロ野球珍プレー好プレーにはエラーを連発する彼(及びそれに怒る星野監督)の姿が放送された。
2年目はより守備の負担が少ないサードへコンバートされるものの失策続きは相変わらずで、
3年目には守備の不安から打撃にも悪影響を及ぼし不振に陥った。
2002年には、山田久志監督の下、二宮至外野コーチの進言により本格的に外野にコンバートされる。
当初はやはり守備に難があったが、辛抱強く起用され続け続けた結果、
練習の甲斐もあって右翼手定着に成功した。
すると本来の俊足や強肩が生きるようになり、強肩の指標とも言われるライトゴロも記録。
オフには佐々木恭介打撃コーチの下、大幅な打撃改造を行った。
更に守備の上達と共に打撃も見違え、3番に定着する。
松井秀喜(当時巨人、現ニューヨーク・ヤンキース)の三冠王を阻む首位打者のタイトルを獲得、
一気に素質開花となった。
2003年は3割を達成し、さらに30本塁打も達成。加えてリーグ最多の三塁打を記録し、
中軸を担うスラッガーとしての評価を不動のものにした。
このころからバックスイング・フォロースルーとも大きく取るフォームを身につけた。
2004年には強打者不在のチーム事情により開幕から4番に座る。
またアテネオリンピック野球日本代表の一員として選ばれ、銅メダルを獲得した。
オリンピックから帰国しチームに戻るものの、復帰2戦目に阪神の下柳剛投手による死球で骨折。
チームは福留を欠いたままリーグ優勝こそ果たすが、西武との日本シリーズでは3勝4敗と惜敗。
不在は大きな痛手となった。
2005年は開幕から活躍し、打率.328、本塁打28本、打点103という成績を挙げ、
通算4度目のゴールデングラブ賞も受賞。
しかし本人はリーグ優勝を逃したからかこの成績にも満足できず、
「打率ならあと2厘、ホームランならあと2本を何故打てなかったのか」と、
同年の秋キャンプから試行錯誤を重ね、
打撃フォームをバットを寝かせて極力無駄を削った広島・前田智徳タイプのものに変更するに至った。
2006年はWBC代表に選出され、スタメン3番として起用されたが、
予選リーグでの中国戦の本塁打以外はなかなか結果が出なかった。
しかしスタメンから外された準決勝の対韓国戦において、7回に代打で出場し、
金炳賢から先制2点本塁打を放ち、日本の決勝進出に大きく貢献。
1敗もできない状況だったためか、この本塁打はマスコミにも大きく取り上げられた。
決勝戦でも代打で2点適時打を放つなど、持ち前の勝負強さを発揮した。
同年6月14日、インボイスSEIBUドームにおける西武ライオンズ戦(第5回戦)で、
クリストファー・ギッセルから左中間に二塁打を放ち、通算1000本安打を達成。
6月末には太ももを痛め14試合を欠場するものの、
復帰後は首位打者争いを独走。同年10月10日、マジックナンバーを1として迎えた対巨人戦で、
12回表に決勝点となる勝ち越しタイムリーを放ち優勝を決めると共に、
シーズン打率3割5分1厘・長打率6割5分9厘・本塁打30本・100打点・100得点を達成。
この内、3割・30本・100打点・100得点は中日の選手として56年ぶりの達成であった。
さらには2位以下に大差をつけて2002年以来4年ぶりに首位打者を、
2年連続で最高出塁率を獲得。二塁打も47本とし、セ・リーグのシーズン記録を塗り替え、
11月14日にはセ・リーグのシーズンMVPも受賞した。ポジションも当初はセンターへコンバートされたが、
英智出場時及びシーズン終盤からはライトに固定となった。
2007年も開幕から不動の3番(ウッズの欠場時には数試合4番で起用された)として活躍するが、
7月中旬から右肘に見つかった遊離軟骨の状態が思わしくなく試合出場を見合わせることが多くなり、
ファン選出で初めて選ばれたオールスターゲームはウッズの代走から次の打席に指名打者として打席に立った(結果はショートゴロ)。
その後も様子を見つつ症状の改善を図っていたが、8月に渡米して内視鏡による除去手術を行う事を決意。
これにより、シーズン中の復帰は不可能に。続くクライマックスシリーズ、
日本シリーズも出場することはできなかった(日本シリーズ出場選手40人枠には入っていた)。
中日の生え抜き野手としては「ミスタードラゴンズ」と呼ばれる立浪和義を凌ぐ活躍をしていることから、
次期「ミスタードラゴンズ」の最有力候補とも言われている。
ただ、本人は2006年12月2日の『スーパーサタデー』に出演した際、
司会の峰竜太から「メジャーに興味はありますか?」と聞かれ、
「興味がないと言ったら嘘になるので、あります。WBCに出場してメジャーへの憧れがより一層強くなった」と答え、
FA権獲得以降のメジャー移籍に含みを持たせる発言をしている。
2007年シーズン終了後に、2007年から適用されている故障者特例措置によりFA権を取得。
同年10月12日に行使し、オフシーズンの去就が注目されている。
FA権行使を自身のWebサイトで報告した同年11月12日、和枝夫人(旧姓:丸茂、当時36歳)と結婚したことも明らかにした。
ナゴヤドームでの入場曲は2007年シーズンよりレッド・ホット・チリ・ペッパーズの『アラウンド・ザ・ワールド』を使用している(2006年シーズンはホワイト・ストライプスの『ブルー・オーキッド』を使用していた)。